バブルの頃、僕はブラック会社で働いた(3)

押しかけ居候

大原は家にいた。僕は彼に「奨学金を担保にして生活費を入れるから、しばらく住まわしてくれ。」と懇願した。当時、育英会から毎月2万6千円の奨学金を借りていた。当時の国立大学の学費は年間12万6千円。しかも入学年度の学費が、留年しても、卒業までかわらなかった。彼は驚きながらも「お前が急に失踪するから、教授からなにか知らないか?って、いろいろ聞かれたんだぜ。」と、嫌な顔せず招き入れてくれた。そして 「気にしなくていいから、しばらくここに住めばいいよ。」と言った。

翌日、僕はフロムAを買い、プログラマーのバイトを探した。中央線で通える勤務先を探すと、とある会社が目についた。勤務先は新宿、渋谷等、いくつもあるという。早速電話をすると、明日、面接に来いとのこと。

プログラマーのバイトは以前したことがあった。Z-80アセンブラの仕事。吉祥寺にあった、物静かな社長と社員一人の小さな会社。社員の女性は東工大でFORTRANをメインに使っていたと言った。バイトの初日、社長が気をつかって僕にお昼をごちそうしてくれた。オフィスに戻ると社長が「音楽でも聴こうか?」とサイモン&ガーファンクルをかけてくれた。

「これ、好きな曲なんだよ。」

サウンドオブサイレンス。いい曲だけど、暗い、つらい。

Z-80アセンブラは中学生のときに覚えた。大学の情報科では専門課程で習うみたいだ。情報科や電子科の先輩のレポートを何通か書いてお金をもらった。それらは勉強のレベルだからハンドアセンブルで済んだ。だけど仕事は勉強の100倍以上ものプログラムを組むからハンドアセンブルでやっていたら終わらない。初めてマクロアセンブラを使った。あまりの便利さに感動したけど、8時間もプログラムを読んでいたら家に帰って英語の予習をしたときに辞書を見ただけで吐き気がした。

その時の仕事は山頂に設置する無線中継器の制御装置だった。大倉電気という会社の仕事だったと記憶している。プロジェクトが途中でなくなったのか、社長は発注元から支払いを受けられなかったみたいだった。結局、バイト代は全額もらえずに少しのお金をもらって解雇された。灯りを消した暗い社内で頭を抱えこんでいる社長を見たら何も言うことができず、そのまま家に帰った。二度とその職場に行くことはなかった。

いざ、バイト面接

スーツもないし、バイトだし、と面接には着の身着のままで行ったと思う。中央線から山手線、五反田で地下鉄浅草線に乗り換えて泉岳寺まで。面接先の会社は駅から数分歩いた雑居ビルの7Fにあった。広さは20坪ほど。さして広くない。面接官は技術部長と総務部長の二人。何を聴かれたかは覚えていない。自分でもよくわかっていない専門用語を駆使し、ハッタリも交えて、必死で自己アピールした。採用されなければ生活できない。自分がなにをできるのか、あらゆる用語を駆使して説明した。時給はいくらほしいか?と聞かれたのでダメもとで1500円と答えた。

面接を終えて会社を出るとき、入れ違いに大きな荷物が入って来た。「FACOM SX/G-150」この後、何年も付き合うことになるマシンだった。1989年11月17日。今でもこの瞬間をはっきりと覚えている。翌日、電話があったのか自分からしたのか…まだ携帯電話の無い時代。同僚の家に電話がかかってきたのかもしれない。来週の月曜日から会社に来い、と言われた。時給も1500円払うと言う。マジで?僕はすごく喜んだ。

後日知ったことだけど、面接した技術部長は社長の弟。総務部長は半年ほど前に入社した年配の方だった。以前はゴルフクラブメーカーの社長だったそうだ。円高で倒産したのち、この会社に来たとのこと。ご隠居さんか、と思った。そして二人に採用の理由を告げられた。

「面接のとき、何を言ってるのかさっぱりわからなかったけど、これだけ話せるんだから仕事できるんじゃないのか?って二人とも思ったんだよ。」

そのころのシステム開発はCOBOLやPL/Iが主流の時代。C言語の仕事もエンジニアもまだ少数派だった。僕はC言語が得意だということを面接でアピールした。これは本当のこと。この会社は派遣が専門の会社だったが、初めて受注した受託業務を担当するエンジニアを探していたことを知るのは、もっと後のことだった。

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