バブルの頃、僕はブラック会社で働いた(5)

その名はBASIC(ベーシック)

プログラミング言語はBASIC(ベーシック)。今でもVisual Basicがあるけど、全くの別物。その上、メーカーごとに細かく仕様が異なっていたから、シャープのパソコンのプログラムをNECのパソコンで動かすことはできなかった。

もちろん最初に実行するお約束のプログラムくらいはどのパソコンでも動いたよ。

NEW
10 PRINT “HELLO”
RUN
HELLO

特にユニークだったのは、コモドールの「VIC-1001」とトミーの「ぴゅう太」だったかな。ぴゅう太は16ビットCPUと日本語BASICを搭載していて、例えば「FOR I=1 TO 10」なら「マワレ I=1 カラ 10」だったと思う。この程度なら英文字のほうが打ち込みラクだと思うけどな。VIC-1001は特殊コマンドの絵文字をやたらと使うので、慣れないと入力が厳しかった。

パソコンは二十万円~三十万円くらいしたけど、マツモト電器では平日なら店頭のパソコンを自由に触らせてくれた。客が少ないからね。僕はベーマガに掲載されているゲームのプログラムをひたすら打ち込んだ。1か月くらい。次はBASICの本を買って勉強した。そして自作のプログラムをマツモト電器のパソコンに打ち込んで実行した。

冬になるとBASICに飽き足らなくなって、Z-80アセンブラの本を買ってハンドアセンブルした結果をモニタコマンドで打ち込んでは暴走の繰り返しだった。アセンブラは「機械(マシン)語」とも呼ばれてBASICの百倍は高速だったからね。アクションゲームをプログラムするには必須だった。自分で書いたアセンブラを対応表を見ながら一行ずつ16進数に変換し、その結果をモニタコマンドでパソコンに打ち込む。そして実行する。一つでも数字を間違えばコンピューターは暴走する(^^; 昔のパソコンの話だからね。WindowsやMacにはこんな原始的な機能はないよ。

自作プログラムの制作

僕は星が好きで、自作で星座を表示するプログラムを作ったんだ。そしたら、仲の良かった店員さんが、パソコンのデモに使ってもいいか?って聞いてきて、もちろんって答えた。自分の作ったプログラムが、店頭で実行されて、知らない人たちの目に触れることがとても嬉しかった。

電器店だから店内では有線放送が流れていた。とても印象に残っているのが黒沢年男の「時には娼婦のように」。中学生の僕には刺激的すぎる歌詞で、プログラミングしながら何度か聴いて覚えてしまった。カラオケで歌ったのは10年後のことなんだけどね。

あれ?高校受験の勉強はいつしてたんだろう?そういえば、高校受験の記憶ってあまりない。大学受験はとても覚えてるのに。

このせいなのか、単願で受験した県立高校が不合格だった。入試は5科目200点満点で、自己採点では170点だった。一科目は満点だった。だから、合格発表が間違ってるんじゃないかと思ったくらい。すぐに職員会議にかけられた。おそらく美術で1をつけられたのが内申点で響いたのかな。僕は自宅から通学できる、なるべく家から遠い県立高校の二次募集を受験して合格した。同じ中学校から進学したのは僕ともう一人だけだった。

中二のとき、美術の授業で先生が「作品を出さないひとには一をつけるからね〜」と言った。当たり前だけど作品を提出したよ。だけど、終業式の日に渡された通知表には、美術の成績に1と書いてあった。放課後、僕は職員室に行って、先生に「作品を出したのにこの成績は納得いかない。」と食い下がったんだけど、もう成績つけちゃったから、の一言で終わり。どうも先生が僕の作品を失くしたみたいだった。

同じ中二のときだったかな、ある日、同級生数名が金属バットを持って、1時間目が始まる前に職員室に殴り込んだって。午前中の授業はすべて自習。給食後は緊急下校になったんだ。夜、テレビを見ていたらマキコちゃんから電話があった。

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