バブルの頃、僕はブラック会社で働いた(9)

MS-DOSとは何もかも違う

今までは独学とはいえ趣味の世界、勉強の世界。自分ひとりはどんなに頑張っても、せいぜい1000行くらいのプログラムしか書いたことがなかった。チームでプログラムどころか、システム開発自体が初めてだし、どう考えても自分の担当分だけで数千行はある。できるのかすごく不安になったけど、やるしかないよね。お金もないんだし。

今はね、画面のプログラムってすごく楽に作れるけど、この時代はまだ簡単じゃなかった。それでも少しでも効率よくラクにプログラムできるような仕掛けは用意されていた。このSX/GシリーズのOSはunixだけど、ウィンドウシステムは富士通独自のものだった。画面を作るには「オプションシート」というものを使う。あとでわかったんだけど、そもそもこの「オプションシート」はCOBOL用に開発されたもので、名前の通り「オプション」の設定を簡単に実装するためのものだったんだ。

今のアプリでも同じだけどオプションで設定するものってせいぜい次のようなものだよね。

・テキストデータ
・数値
・チェック(オン/オフ)
・項目選択
・メニュー

これらだけを設定するための画面なら確かに簡単に作れたんだけど、僕が作る画面はもっと複雑だった。だいたい32bitマシンでのプログラミングは初めての体験だった。int型が32bitなのに感激したくらい。とにかくなにもかもがDOSとは違っていて僕が面食らっていたのに、武中さんは相変わらずパソコンで仕事をしていた。これが後でトラブルになるんだけど、僕はまだ何もわからなかったんだ。

アルバイトとは言え働く時間はフルタイムだし、他の社員の人たちと同じように勤務していたので、就職したような気分だった。でも研修があるわけじゃない。いきなり現場。学生だったから、仕事のことだけじゃなくて、いわゆる「常識」だって持ち合わせてなかった。ビジネスマナーなんて言葉も知らなかったよ。

ビジネスマナーってなに?

そもそも僕は子供の頃からよくいじめられたり変わり者扱いされる、いわゆるコミュニケーション障害者だ。会社の電話を取るのだって、見たことも会ったこともない人になぜ「お世話になっております。」と言わなければならないのかがわからなかったし、誰も理由を教えてくれない。ただ、そのように言えと指示されるだけ。理由がわからないものを実行することに抵抗がある。

だから電話で相手に「お世話になっております。」と言えるようになるまでに一週間くらいかかった。数年後、自分が会社を興して採用した社員にまったく同じことを言われた時は苦笑したけどね。

この会社の社員数は50人くらいと聞いたんだけど、オフィスの広さは20坪くらいだから50人も入らない。会社にいるのは多い時でも十人くらい。仕事が決まればいなくなる。後でわかったけど、社員のほとんどは派遣なので現場で仕事をしていた。通常は数か月、時には何年も通勤する。会社には月に一度、交通費の精算に来るくらいだった。契約が終われば次の仕事が決まるまで会社にいるんだって。だからフロムAの広告には勤務先がたくさん書いてあったんだ。

この会社で派遣じゃないのは社長と総務部長と事務の3人、そして僕と武中さんだけだった。技術部長は人が足りないと派遣先で仕事をしていた。事務は僕と同じ歳の女子大生のアルバイト。鹿児島出身でいつもおしゃれな坂本さんだった。そう言えば社長も技術部長も鹿児島出身で、二人は兄弟だった。

社長は三十代半ばかな。黒く焼けていて、ちょび髭がトレードマークだった。いつも高そうな黒の短い革のコートを着ていた。ものすごく金を持っていて、毎月外車を買い換えている、マンションをいくつも持ってると社内で噂されていた。そうそう、当時出たばかりのショルダー式の携帯胃電話も持っていたよ。平野ノラが持ってるやつだよ(笑)

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