私のプログラミング習得史(1)

2020年度からプログラミングが小学校の必修科目になるという。おそらくScratchなんかを使うのだろう。NHKでもすでに厚切りジェイソンが出演しているScratchを使ったプログラミング番組がある。わかりやすい。プログラミング環境が無くてもウェブから操作できる。プログラム言語を覚えなくてもサイトの使い方を覚えればプログラミングできる。しかもイベントドリブンだ。羨ましい時代がきたものだ。

私が初めてプログラミングをしたのは中学校2年生の頃。ビジネス用パソコンのBASICだった。これは展示会のデモで言われるがままにプログラムを打ち込み実行しただけだった。それだけでも感動ものだった。

ときは1982年。中学校3年生になり、受験勉強のために夏休みで部活動が終了すると、放課後に隣町の家電量販店に行き、店頭のパソコンでプログラミングをし始めた。きっかけは覚えていない。ただ電波新聞社のマイコンBASICマガジン(通称:ベーマガ)を買ってひたすら掲載されているプログラムを打ち込むだけ。調べてみるとベーマガはこの年の7月創刊ということで、夏休みに書店でみかけたのを買ったのだろう。当時、自宅の近所に小さな書店があってよく通っていた。部活は吹奏楽をしていたのだが、中2の頃に元の母(両親は私が小さい頃に離婚していて、今の母は継母。)が一眼レフ「CANON AE-1」を買ってくれたのでカメラ雑誌のCAPAを毎月買っていた。撮影対象はもっぱら鉄道と天体。そう、私は鉄ちゃんだったのだ。

天体の方は星が好きで星座や月が撮影したくて、今でいうフリマで対物レンズと接眼レンズ、三脚を買い、塩ビ管にビニールテープでそれらを括りつけて望遠鏡を組み立て、一眼レフで撮影した。星座は赤道儀がないときれいに撮影できないと知って、高価な赤道儀など買うことはできず、「ポータブル赤道儀(通商:ポタ赤)の作り方」という本を買ってきて作ってみた。ボール盤や旋盤が必要だったがそれらは中学校にあったので、技術科の先生に「卒業製作に使いたい。」と理由をつけてお願いし、使わせてもらった。だけど苦労して完成したポタ赤は使い物にならなかった( ;∀;)

1982年当時、パソコンはいろんなメーカーから発売されていた。代表格はNECのPC-8001やPC-6001(通称:パピコン)だった。他にシャープのMZ-2000、松下のJR-100、日立のベーシックマスター、富士通のFM-8、東芝のパソピア、カシオのFP-1100、コモドールのVIC-1001など。Apple IIもすでにあったが、高嶺の花で雲の上の機種だったから、ほぼ他人事だ。当時、イランのアメリカ大使館人質事件から着想を得たという「チョップリフター」というゲームがすごくはやっていると雑誌に書いてあったが、意味が理解できなかった。金持ちの同級生が台湾製のAppleII互換機を買ったとか、フロッピーが内蔵されてるとか、見たことも触ったこともない自分にはフロッピーディスクがどういうものか、まったく想像できなかった。

そしてこれらのメーカーはすべてBASICをプログラミング言語として搭載していたが、互換性はまったくない。PC-8001のプログラムをMZ-2000で動かすのは困難だった。同じメーカーでもPC-8001とPC-6001でも互換性はないし、MZ-2000とMZ-80でも同様だった。ただBASICというプログラミング言語を各メーカーが独自に拡張していたようなものだ。そうはいっても店頭でパソコンをつかっているのだから、店頭にない機種は使えない。人気がある機種も使うことは難しい。店頭でプログラミングをしていたのは私だけではなかった。近隣の小学校や中学校から何人ものこどもたちが通っていた。自分と同じ学校の子どもはいなかった。その中にもいろいろな序列があったから、新参者の私は空いているパソコンを使うしかなかった。

※1982年頃のパソコン機種の一部が山口県立博物館に展示されています。

→(2)