私の黒歴史 ~なぜか埼玉~

投稿者: | 7月 11, 2020

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私の黒歴史

私は京都生まれの埼玉育ちである。子供の頃に埼玉に転居したので、京都弁は話せない。9歳で埼玉に引っ越して来たときはもちろん京都弁しか話せなかった。そのために、それはもう、きついイジメにあった。転校初日、先生に紹介される前から、クラスの男子と殴り合い。

「しばいたろか!」

怒鳴りつけても、同級生はキョトンとした顔をするだけ。

「ヒモで縛りつけるのか?」

真顔で言い返されて終わりである。当時はまだお笑いブームの前であり、テレビで関西弁を話すタレントもいなかった。

数日前、中学の後輩から30年ぶりに連絡があった。Facebookで見つけたらしい。彼とは同じ部活で珍しくそこそこ仲も良く、卒業後も何度かあったことのある、ただ一人の例外だ。彼から聞かされたのは、同級生の誰が亡くなったとか自殺したとか。彼の兄は私の先輩でもあったが、アルコール依存症で8年前に四人の子供を残して他界したとのことだった。ただ、いろんな名前を出されても、あまり思い出せない自分がいた。

確かに治安の悪い地域だった。校内暴力で授業打ち切りになった日もあったし、全国ネットのニュースになったこともある。同級生の数名は埼玉学園に送られた。何と言っても、教師がほぼほぼ保身に走るので、まったく信用できない。同級生だけでない。教師からも激しいイジメにあった。私の教師嫌いの原点は中学時代にあるのだ。唯一の例外だった先生は、私の卒業と同時に教師を辞めてしまった。

ふと、最近の様子はどうなのだろうかと思い、試しに学校名で検索すると、相変わらず荒れているらしい。当時は新設校だったのに、これはもう伝統だな。

思い出したくもない黒歴史だ。

なぜか埼玉

そんな埼玉に今でも実家がある。幸いなことに、実家は私の中学卒業とともに隣町に引っ越したので、成人式には知り合いが一人もいなかった。つまらなかったが、ホッとした。その後も実家は転居を繰り返し、20年くらい前に、父がマンションを購入して、朝霞に落ち着いた。

当時、笹塚に住んでいた私は、子供たちが生まれたばかりだった。母が週に三回は孫の世話をしに笹塚まで来てくれていた。その子供たちもすでに18歳である。

2年ほど前、二度目の結婚を機に、8ヶ月ほど実家のすぐそばに住んだ。まさに「スープの冷めない距離。」である。三十年間で、地下鉄の路線も格段に増え、乗り換えなしで新宿にも渋谷にも行けるようになった。なかなか便利な場所であり、ほどよい田舎なのも気に入った。春には土筆もたくさん採れる。両親がこの地に落ち着いたのが分かる気がした。

それでも埼玉は私の人生で大きなトラウマだ。埼玉県内の学校にはけいたまを絶対に通わせたくないと思っている。