台湾の歴史 日本との関係は江戸時代から

投稿者: | 7月 11, 2020

2017年秋、台湾を訪れたことで、台湾について自分の知っていたことがパズルのピースのように繋がった。そればかりでない。日本と台湾のつながりについても知ることができた。

日本と台湾のつながりは日清戦争において、日本が清国から台湾の割譲を受けてから始まったと、ほとんどの人が思っているだろう。私もそう思っていたが、実はもっと古く、台湾が開かれた時からつながりがあったのだ。

そもそも台湾島は多くの山と熱帯雨林からなる島だった。富士山より高い山が二つもある。一つは阿里山、もう一つは「ニイタカヤマ」こと玉山だ。それぞれの山には山岳民族が住んでいた。首狩り族だ。

自然環境が厳しいために、一つの山で生きていける人間の数は多くない。そこによそ者が来れば戦争だ。殺した相手は戦果として首を持ち帰る。戦国時代では日本でも同様だ。「首を獲った!」と言うくらいだ。持ち帰った首の数だけ刺青が入る。一番入れ墨の多い者が一族のリーダーとなる。彼らの身体能力は高い。戦時中、日本軍に「高砂部隊」と呼ばれる特殊部隊があった。これは台湾の高砂族から構成される最強の部隊だったそうだ。

熱帯雨林ではマラリアが蔓延していたので、人は住めなかった。農作物も採れない。中国の歴代王朝も台湾島のことを「化外(けがい)」と呼び、不毛で人の住む土地ではないとしていたため、台湾島はどこの国の領土でもなかった。

17世紀になり、ヨーロッパ各国がアジアに押し寄せるようになって、オランダが初めて台南に港を開いた。これが台湾史の始まりとされている。その後、スペインも基隆に港を開いたが、しばらくしてオランダ軍に追い出された。

中国では王朝が明から清に変わろうとしていた頃、福建省の軍人、実際には密貿易を商売としていた鄭芝龍が、明の皇帝から命を受けて、長崎に滞在し、長崎県平戸市出身の田川マツと結婚する。生まれた子供は幼名を福松と名付けられた。福松が7歳のとき、一家は福建省に移り住んだ。そして福松は鄭成功と名を変えた。

その後、明王朝が滅んだ後も、鄭成功は明の復興を目指して抵抗を続け、台湾に拠点を移すとオランダ東インド会社を攻め、台湾より追放した。そして歴史上、初めて台湾に漢民族による政権を樹立し、台湾島の開発を開始したが、まもなく病死した。息子たちが意思を継ぐも、二十年後に反清勢力の撲滅を目指す清王朝により滅ぼされた。この頃から台湾に住むようになった独自の文化を持つ漢民族が客家だ。

このように台湾島における初の漢民族政権は日中ハーフにより実現された。鄭成功は台湾において、孫文、蒋介石と並ぶ三大英雄である。長崎県平戸市にも鄭成功記念館が存在する。そして、鄭成功の清との攻防は、後に近松門左衛門によって「国姓爺合戦」として人形浄瑠璃化され、後には歌舞伎化もされた。

台湾人なら誰もが学校で習う鄭成功を知っている日本人は、果たしてどれだけいるのだろうか。江戸時代には相当な日本人が彼を知っていたはずなのに。