知らない土地で店を探すとき、ネットを見たりもするが、やはり自分の勘を信じることの方が多い。ネットの意見は様々な人の見解を寄せ集めて数値化したものである。母集団が私の好みや傾向と一致しなければ、なんら参考にならない。
十割の田舎そばが好きな人ばかりで作成された蕎麦屋ランキングは、二八の更科好きな私にとってなんの意味も持たない。食い物は嗜好品だ。自分が旨いと思うものを食べたいのだから、人と好みが異なれば、参考意見にはならないのだ。「食事なんて食べられればいい。」と言い放つ人は、私にとって論外である。パクチー嫌いの人にパクチーの魅力を語っても、嫌悪の対象にしかならない。
だから偏食の人とは付き合えない。妻はなんでも食べるので、お互いに食材やアレルギーに気を使う必要がない。二人にとってはこんな当たり前のことが、一緒にどんな料理にでもチャレンジできることが、実は奇跡なのだ。ぎぼむすでも綾瀬はるかが言っていた。「奇跡はわりと身近にある。」高橋一生も語っていた。「僕らは奇跡でできている」と。いいドラマだった。
食事の内容だけでなく、店の雰囲気も大事である。一人のみなら、地元の常連さんがメインの小さな店で、大将や女将さん、ときにはお客さんたちと、静かに話をしながら飲むのが好きだ。ザワザワしている、開放感あふれる居酒屋さんで一人のみをすると、まあまあ失敗する。苫小牧でもやってしまった。
このような店は総じてネットでの評価が高くない。自分の行きつけの店に、わざわざ点数をつけるだろうか。客のエゴとして、自分のお気に入りは人に教えたくない、親しい人には教えたいなんて考えは普通である。言ってみれば、「異世界居酒屋のぶ」や「深夜食堂」は、誰もが心の中に持つ、いくつかの理想形を具現化した作品だから人気を集めるのだろう。
それはまさに「人情酒場」、まごうことなき日本文化なのである。
さあ、今晩はどんな店で、何を食べさせてもらえるのだろうか。
50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)