肥薩線と高速道路 ~地方創生は可能なのか?~

投稿者: | 7月 11, 2020

人吉でウナギを食べ人吉城址の桜を愛でたのちに、レンタカーを走らせ、人吉インターから高速に乗った。以前、人吉から福岡に向かった時は、球磨川沿いを走り新八代から新幹線に乗った。ラフティングができる上に、SLが走っているのを見ることができるが、道は悪い。おまけに天気も悪かった。

今回は夕方までに佐賀空港に行き、社長と秘書をピックアップした後に、会議の会場まで行かなければならないので、時間優先のために高速道路を使用した。走っている分にはなんてことのない道だ。トンネルがやたらと多い。地図で見ると八代まで山の中を橋とトンネルで結んでいることが分かる。下道から見上げた高速道路は圧巻だ。なんせ人吉から八代までインターがないのだ。

対して鉄道と国道219号線は球磨川沿いに走っているので、景色はいいが、かなりの遠回りだ。明治時代に開通した人吉と八代を結ぶ肥薩線は、くねくねと走るだけでなく、地盤が弱くて線路も細い。肥薩線を走るSLはパワフルなCやDシリーズではなく、ハチロクである。レビンとかトレノではない。明治時代にすでに「ハチロク」は存在したのである。

8620型 量産型蒸気機関車

8620型、量産型蒸気機関車。

日本で最初に量産化された機種である。人吉駅で見かけたのは8654号機だ。なぜ、こんな百年前の機関車が走っているかと言えば、CやDシリーズは重すぎて、線路や路盤が耐えられないからである。それだけ、脆弱な路線を百年以上も使っているのが現状なのだ。

百年前の機関車の馬力など、たかが知れている。大正十一年製の8654号機は759馬力だ。ちなみにD51は1280馬力、昭和に生産されたED76型電気機関車は2548馬力であるから、ハチロクがいかに非力なのかがわかるだろう。この機関車が客車を引いて走るのだから、急な坂は上れない。

新潟駅が立体化して、ホームが平面から二階に移った。これで新幹線と在来線の乗り換えが同一階で行えるようになったのだが、SLは新津駅どまりに変更されてしまった。なぜなら、SLは二階ホームに入れない。非力なために坂を上がることができないのだ。このSLはC57で1040馬力。8620型の20年後に製造された車両でも、この状況なのだ。

新潟駅二階ホームに停車する特急いなほ号
新潟駅二階ホームに停車する特急いなほ号

急な坂を走れないために、肥薩線は当時は最新技術だったループトンネルやスイッチバックなどが採用され、なんとか急峻な山あいに鉄道を引くことができたのである。平坦な海側ではなく、こんな山の中に鉄路を敷いたのには理由がある。明治時代、日露戦争(1904年)が起きるのではないかと言われていた頃だ。海側だと艦砲射撃で鉄道が破壊される可能性があるために、わざわざ山の中を通って、熊本から鹿児島まで鉄道を開通させた。明治41年、1909年のことだ。

その八十年後、平成元年(1989年)に開通した高速道路と比較するとその差は歴然だ。最新の土木工学では、橋梁とトンネルを駆使して、急なカーブも大した勾配もなく、ほぼ直線にすいすいと走ることができる。人吉から新幹線、新八代までは鉄道では一時間以上かかるのに、バスでは40分で着いてしまう。もしも道路だけではなく、鉄道にも国費が投入されてインフラ整備されれば、観光地は違う形があったのではないだろうか。そもそもは国鉄だ。国費で建設されていた。高速道路にも税金は投入されているが、運営は民間企業である。

現在のように、インバウンドで海外から数千万人もの観光客が押し寄せる状況を、誰も見通せなかったのだろう。超高齢化社会が来ると分かっていながら、マイカー社会がいつまでも通用すると誰もが思っていたのだろう。東京都区内の駅ですらバリアフリーにはほど遠い。大量輸送、定時運行は鉄道の方が強い。おまけに若者のクルマ離れが深刻とすら言われている。車社会、道路重視のツケが地方に押し付けられている気がしてならないのだ。こんな状況で地方創生など、できるわけがない。