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妻の職場
妻はとある惣菜店で働いている。調理師の資格を活かして調理場の仕事をしているのだ。
ソーシャルディスタンスが必須なこの時代、飲食店は度重なる緊急事態宣言で休業や営業時間の短縮を迫られ、消費者の選択肢は減る一方だ。
こんな状況なので、日本で最も所得が低い沖縄でもウーバーイーツが進出するくらいだ。しかも那覇市だけではなく、中部の沖縄市やうるま市でもサービスが開始される。那覇市郊外の田舎に住む私の地域は未対応だというのに、この格差はなんなのだ?
自宅あたりだと出前館ですら対応しているのはピザ屋とから揚げ屋くらいなのだ。
なのでテイクアウト専門店は繁盛しているかと言うと、妻の職場は売上が下がる一方らしい。原因はいろいろあるが、突き詰めると経営者の性格にぶちあたる。
客観的に見て、料理人としての腕はかなりのものだが、経営者としてはゲスで、人としてはクズだ。なかなかの逸材である。だからスタッフが定着しない。
経営者を個人攻撃したいわけではないのでこれ以上は割愛するが「商品はおいしいのに客が離れていく」のである。
このままでは1年と店は持たないであろう。
新商品開発の罠
売上を増やすために必要な対策はなにか?この経営者は「新商品開発」という答えにたどり着いたらしい。歳はいっているが、自宅で料理をしたことがない、経験2年目のスタッフに開発を任せているそうだ。
当然、任されたスタッフは何の疑問もなく新商品開発に力を入れている。毎日のように経営者にダメだしされているらしい。
気が付けば店頭に並ぶ新商品の割合がじわじわと増えていたとのことだ。それで売上が上がっているのか?店頭に置けば商品は売れるが、客が増えているわけでもないそうだ。もともと客が増えたり減ったりしてきたが、その原因を突き止めることに経営者は興味がないようだ。
新商品さえ作れば売れる。そう固く思い込んでいるらしい。
ああ、私にもそんな時期があった。
そもそもベテランスタッフが全員退職し、見習いスタッフだけで製造しているので、生産性が低い。すべてが売り切れてもかつての売上には達しないそうだ。
新商品の錯覚
かつて自社でパッケージソフトを開発していた。辞典アプリだ。世の中には様々な辞書がある。英和・和英・国語・漢字・仏和・独和・西和・中日・韓日に医学や法律、政治、経済等の専門用語などなど。
売上を伸ばすには新商品を開発するしかないと思い込んでいた。確かに新商品をリリースすれば売り上げは伸びだ。だが、ここの罠があった。
パッケージソフトは店頭に並べば売上となる。だが返品もフリーなのだ。製品リリース時に100万円の売上があったとしても、1年後に90万円が返品されることがあるのだ。これでは大赤字である。
ではどうやって赤字対策をするのか?新商品を開発し、返品にぶつけるのである。そうすれば売上と返品が相殺されるので売上はマイナスにはならないが、実際は大赤字である。一時しのぎである。
店頭在庫を売上として計上するからこういうことになる。
必要なことは店頭の在庫を減らすことである。流通業者や小売店が買ってくれることではなく、消費者が製品を購入してくれることが必須なのだ。直販であれば返品リスクがほとんどないのであるが、流通が取り扱う規模は大きい。全国の家電店に一本ずつ置いてもらえるだけで2000本を超える。
まあ、店頭で売れなければ返品されるので意味がないのだが。
つまり私はどこを見て商売をしていたかと言うと、消費者を見ていたつもりで、実際は流通を見ていたのだ。ここにマーケティングという発想はない。
辞典でいえば、もっとも市場が大きいのが英和辞典だ。ダントツである。2位の国語辞典の三倍以上も大きい。そして3位が和英辞典。独和や仏和なんて微々たるものだ。
ラインナップがそろっていると見栄えはいいのだが、売れる辞典も売れない辞典も、開発や製造コストは変わらない。本来ならば売れる製品の商品力を上げるための努力をするべきところなのだ。それを新商品開発に注力したところが大きな間違いなのである。
追い詰められたギャンブラー
新商品開発に頼る経営者は「この馬券さえ当たれば…」「このパチンコ台が噴けば…」と一発逆転を狙う追い詰められたギャンブラーと変わらないと、個人的には強く思う。私自身、最後までそう考えて事業に失敗した。
10年前、電子教科書に採用される電子辞典を開発した。これさえ認められればすべてがうまく行くと思っていた。
まるで人類最後の望みとなる最終兵器、これが敗れ去れば地球はなくなるなんて発想はゼロで、こいつさえ完成すれば、敵をせん滅して平和を取り戻せるのだ!なんて設定と変わらない。
絵にかいたようなご都合主義にしがみついて、私は夢破れたのだ。
そして会社は清算、私は破産。以後、サラリーマンとして昨年まで生きてきた。今まで経営者として上から見ていた景色が、被雇用者となって下から景色を眺めることになった。気づかされることの多いこと多いこと。沖縄の言葉で「うちあたい(思い当たることがあって恥ずかしくなること)」の連続であった。
新商品開発を否定する気は毛頭ない。だが、その前にやれることがたくさんあるのに、気づかない経営者が多いのだろう。売れ筋を把握して、その商品をもっとアピールするとか、既存の商品の魅力を伝えるとか、地元に密着した商品名に変更するとか、お金をかけずにすぐにでもやれることはたくさんあるのだ。
それを「新商品開発」だけに的を絞るのは、まさに「プロダクトアウト」思考である。開発戦略に消費者は存在しない。あるのは「きっとこんな商品なら売れるだろう」「斬新な料理ならウケるだろう」という属人的な妄想だ。
経営者本人は自画自賛しても、スタッフたちは黙して語らず、給料さえ出ればいいや的な感じでしかない。
プロダクトアウトが一概に悪いとは言わない。私も最初のいくつかの成功はすべてプロダクトアウトであった。そのためにマーケティングを軽視していたのだ。会社を辞めて冷静に自分の過去を見つめ。他人の事業をコンサルティングしていくうちに気づいたのだ。
消費者ファーストの重要さ
英和辞典が最大マーケットなのに、辞典のラインナップをそろえることが企業アピールとして重要だと、学術出版社のような論理で製品開発を進めた戦略には消費者は不在だった。
私がマーケットとしていたのは消費者市場ではなく流通事情であった。
新製品を並べるとアピールしやすい。だが売れるかどうかも分からないものを店頭にたくさん並べるわけにはいかない。妻の店で言えば、消費者が求めているものは売れ筋の料理だ。
「マーケットイン」なる考え方なのだ。
売れ筋の料理を把握して、その商品の魅力を引き上げたり客に伝える努力をする。近郊店で売れているのに自分の店であまり売れていない商品を把握して、その違いを分析する。
なにより地域の惣菜店は地元あっての商売だ。地域に根差した商品名に改称したり、店の立ち位置を地元にアピールすることが欠かせないのだが、職人にそんな発想はない。彼らの頭の中は常にプロダクトアウトだ。
「いいものは売れる」
「いいもの」の定義が個人的な価値観に立脚していては、消費者にとって「いいもの」であるとは限らない。だからこそマーケティングが重要なのである。
店舗を経営しているのだから、データというお宝が山ほどあるというのに、それを活かせない経営者は負債を抱えることになるだろう。
自分自身がそうだった。なまじ成功体験があるから、より思いが強かったのだろう。
勘違いしてほしくないのは、妻の職場の経営者を私がゲスと呼んでいるのは、マーケティングを理解しないからではない。素晴らしくブラックな労働環境を作り上げる手腕を評価してのことだ。
せめてあと半年は妻の職場がつぶれないことを祈るばかりである。
(※この話は実話をもとにしたフィクションです)

50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)