食育について思ったこと ~解剖と調理の違い~

投稿者: | 7月 11, 2020

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知人の店

加古川で精肉関連の会社を経営している知人がいる。かねてより飲食店経営をしてみたかったが、叔父が焼肉店をしているので遠慮して手を出さなかったと話していたが、数年前、加古川駅前に立て続けに店を出した。肉居酒屋に割烹、そして肉そばことラーメン店だ。

割烹は肉割烹と勝手に勘違いしていたのだが、素晴らしくうまいステーキを食べさせてくれた。肉居酒屋には2〜3度、食べる機会があったが、泥酔してあまり記憶がない時もあるのだが、入口のグリルでスタッフが焼く肉が美味そうなのが印象的だ。安くて美味い肉を食わすのが理念だそうだ。牛は一頭から様々な肉がとれる。希少部位には安くて美味い肉が少なくないようだ。

割烹 大浦 ステーキ
肉割烹で食べたステーキ

また彼自身が牛を育て、処理するところまで担当しているので、生命の大切さと、それをいただく我々への提言も会社のテーマとしている。普段、気にかけることは少ないが、鶏肉も豚肉も牛肉も、すべて動物を殺して食料としている。人間は食物連鎖の頂点に位置する雑食動物だから、様々な動物を食べる。

解剖と料理の違い

魚もカニもエビも貝も生き物だ。小さな頃から活け造りを「美味しい」と感じる文化で育った日本人は、生きている魚を締めることに何の罪悪感も躊躇も感じないだろう。私だって生きている鮮魚は鮮度がいい、くらいにしか思わない。生きたままの魚介類を焼いたり煮たりしても、早く焼けないかな、火を通しすぎたら美味しくないなと、自分の食べる心配ばかりで、生物の生命を奪っている感覚は刹那である。

これが異文化の人間から見ると野蛮に見えることもあるだろう。昔、オーストラリアの首相が地獄焼きを出されて、このような非人道的な料理は受け入れられないと、怒って席を立ったと聞いたことがある。同じく以前見たテレビで、サバンナに住むアフリカ人家族と日本人家族をお互いにホームステイする番組があった。アフリカ人が食べるために動物を締めるのを見た日本人の子供が目を背けて泣いていたのを、アフリカ人は理解できなかった。それが、日本に来て生きた魚を調理する光景をアフリカ人は泣きながら目を背けていた。

「私たちが動物を締めているときに、あなたが泣いていた気持ちはこれなのね。」

アフリカ人の女の子が、泣きながら話していた言葉がとても印象に残っている。

不思議なのは、子どもの頃、包丁で魚をさばくのにはまったく躊躇も抵抗もなかったのに、フナの解剖には戸惑った。魚をさばくのも解剖するのも同じことなのに、包丁とまな板ならばなんてことない作業が、解剖ハサミとピンセットに変わるだけで、何か大それたことをしているのではないかと不安を抱えることになったのだ。しかも内臓の動きを見るのが目的だから、普段はワタとして捨てている部位を、傷つけないようにしなければならない。気分はブラックジャックだ。

しかも、普段なら当然のように甘露煮にでもしているだろう魚の死体を、校庭の隅に埋めて供養した。いずれにしろ、我々は生命を奪って生きている罪深い生物である。だからこそ、食べ物は大事にいただき、粗末にしてはならないし、そのように子どもたちにも伝えなければならないのだ。だからこそ、まずい料理を作る料理人は罪なのだ。