クロアチアの思い出 ~20世紀の話~

投稿者: | 7月 11, 2020

クロアチア、バルカン半島の根元に位置する国である。南西にはアドリア海を挟んでイタリア、北がスロベニア、北東はハンガリー、東がセルビア、南東がボスニア・ヘルツェゴビナに接している、旧ユーゴスラビア連邦の国だ。日本とは馴染みがない国だが、サッカーやバレーボールのワールドカップではたびたび日本と対戦している。ネクタイはクロアチアの民族衣装から派生したファッションである。

私は1997年と1999年、2002年の3回、クロアチアを訪問した。いろいろと思い出のある国だ。デジカメの性能も低くて、スマホどころか、i-modeもなかった。画質も悪い。しかも2002年に訪れたときは、写真すら撮っていなかった。この頃、デジカメで撮影したのは子どもの写真ばかりで、出張では写真を撮る心理的余裕がなかったように思う。

初めてのヨーロッパで、初めての東欧。見るもの食べるものすべてが初めてだった。食事はおいしかったと記憶している。クロアチアはバルカン半島の付け根にあるので、海と山が近い。日本と食材が似ているように感じた。

戦争が終わって数年しか経っていない頃だったので、街のあちこちに弾痕が残っていた。がれきの街中でサッカーボールを蹴る子どもたち。サッカー王国の原点を見た気がした。有名な教会を案内してくれた地元の知人は、教会の中に入ろうとはしなかった。自分たちだけで見て来いという。理由を聞いた。

戦争が終わって数年しか経っていない頃だったので、街のあちこちに弾痕が残っていた。がれきの街中でサッカーボールを蹴る子どもたち。サッカー王国の原点を見た気がした。有名な教会を案内してくれた地元の知人は、教会の中に入ろうとはしなかった。自分たちだけで見て来いという。理由を聞いた。

「私はかつてはキリスト教の信者だったが、今は無神論者だ。あの戦争は教会が主導して始まったんだ。神のために戦えと。本当に神がいるのなら、あのような戦争を人間にさせるだろうか。だから、私は神などいないと考えるようになった。戦争を主導した教会になど、入りたくない。」

ザグレブ市街
1997年 ザグレブ市内 

クロアチアとセルビアとの激しい戦争は、言ってみれば日本が神道(神社)と仏教(仏閣)に分かれて戦争をしたようなものだ。二つの国は同じ文化に同じ言葉だ。プログラミングをしていて、Windowsの言語コードが2つとも同じ値であることを知った時に、確信した。違っていたのは宗教だった。

街の中央には馬に乗った大きな英雄像があった。元々は歴史的に対立していたハンガリーに向いて安置されていた。それが戦争時にセルビアを向くように配置が替えられたそうだ。

夜にはハードロックカフェに連れていかれた。友人が経営している偽物だと知人は話していた。当時、この国に仕事はない。大学を卒業してから四十歳くらいまでの人々を街で見かけるのがまれだった。人口の七割が公務員だと知人が話していた。なのでカフェで踊っている女性は皆、若かった。

面白かったのは、踊っている女性は前列から背の順に見事に並んでいた。前の方は髪と瞳が黒く、肌も黒くて背が低いトルコ系だ。それが背が高くなるにつれて、肌は白く、髪はブロンドからプラチナへ、瞳は青からとび色へと変化していく。まさに人種のグラデーション。ここがアジアとヨーロッパの接点だと認識させられる光景であった。

知人とはもう10年以上、連絡を取り合っていない。元気だろうか。