経済交流で台湾に来たのだが、私は台湾人と仕事をしようと思わない。台湾でビジネスをしようとも思わない。韓国人や中国人に対しては、このような感情を持っていない。
20年前、自社開発したソフトウェアは台湾でも大ヒットした。しかし、台湾企業による相次ぐ模倣品の販売、模倣品によるデータ盗用被害などが発生した。データを盗用した会社に顧問弁護士が警告したら、相手から著作権侵害で警察に刑事告訴された。ウソでもでたらめでもいいから「やられる前にやれ。」である。しかも、民事提訴ではなく刑事告訴である。
もちろん、不起訴に終わった。盗まれたのはこちらなのだから。さらに提携先にも騙され、契約は守られず、被害は大陸へも及んだ。裁判を起こしても、台湾の法律では勝ち目がないと弁護士に言われ、台湾の何もかもが信用できなくなり、契約解除。わずか2年で撤退。
台湾での利益は、すべて法務費用に消えた。
このような目に遭っても、台湾の食文化は大好きだ。国民党が共産党との内戦に敗れ、台湾に逃げて来た時に、釣魚台(国賓を迎える施設)のコックも一緒だった。中国全土の腕利きの料理人らが台北に逃れ、その後、自分の店を開いた。
だから台北は一都市でありながら、中国全土の料理を食べることができるのだ。20年経ってもそれは変わらない。
それどころか、台北がものすごく日本化していることに驚いた。若い日本人が多くビジネスをしている。日本の店が日本語の看板で日本と同じように営業している。20年前とは大違いだ。日本人同士であれば、私も台湾でビジネスができるのかもしれない。
ああ、一つだけ例外があった。台湾から撤退しても、技術供与をし続けた相手が一つだけいた。それは淡江大学盲人視覚系統開発室だった。
50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)