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実母との邂逅
私の両親は三歳の頃に離婚した。その後、四歳のときに、父が今の母と再婚した。
「新しいお母さんだー!」
そう言って母に抱きついた光景は、今でも目に焼き付いている。四十歳になって、実母との交流が始まった。それまでにも何度か会ったことはあったが、いろいろな事情で、若い頃の私は実母を相当恨んでいた。
一昨年に父が死に、様々な封印が解かれた。実母との交流も一つである。いい歳なので、両親に気を使って実母に会わないなんてことはすでになかったが、気持ち的なものなのか、後ろめたさはなくとも、両親の前では実母の話題は避けていた。それが今では、なんの気負いもなく会うことができる。
離婚後、実母は超ボンボンの父を見返したい一心で仕事に身を費やし、ついにはかなりの資産を築き上げた。母と言えども、雰囲気は姐さんというか、ちょっとカタギではない雰囲気がある。若い頃からベンツのクーペを乗り回していた。十年前にも真っ黒なSシリーズに乗せてもらったことがある。もちろん商売はカタギであるが、一代で財を成した人に特有の迫力があるのだ。
義祖父の死
その実母から呼び出された私は、朝イチの飛行機で関空に飛び、大阪に向かった。土産の一つでも持っていこうと思っていたのだが、二日前に妻の祖父が亡くなり、今日がお通夜、明日が葬儀ということで、妻は手伝いに、私は自宅で娘二人の子守をしていた。夫婦でバタバタしていて、気配りをする余裕がまったくなかった。
亡くなった妻の母方の祖父は九十七歳だったと妻が言った。存在は知っていたが、何年も前から寝たきりで認知症であり、少し変わった叔父が面倒を見てるということで、会うこともなかった。ちょうどゆうたまの退院と入れ替わりに祖父が入院し、義母が面倒を見ていた。
祖父が亡くなった日から義母が体調を崩したと妻が言っていたので、やはり親が亡くなったことがショックなのかと思っていたら、単に妻のウイルス性腸炎が義母に伝染しただけのようだった。妻と相談して、明日は名古屋から戻ったらそのまま那覇市内の葬儀場に行き、妻が用意した車の中の喪服に着替えて焼香したのちに、けいたまとゆうたまを連れて自宅に帰ることにした。
沖縄の葬儀は、お通夜、出棺、火葬、葬儀、納骨の順番で、すべて一日で終える。葬儀は午後二時半に終わり、その後、妻は納骨のために嘉手納の墓地まで行かなければならない。自宅に戻るのは夜になるので、私が子どもたちを連れ帰らなければならないのである。
岐阜で飲み過ぎた
大阪で実母および妹と一緒に食事を済ませると、岐阜に向かった。祝賀会に参加するためだ。午後五時からの宴席は、食事が少なく酒ばかり。それも最後にはウイスキーがなくなったとかで、酎ハイを飲むことに。そして二次会。三次会。なんだかやたらとシャンパンを飲んだ気がする。記憶がない。朝方に目覚めた時は、上着だけ脱いで、ベッドの上で寝ていた。服を脱ぎ、歯を磨き、水を飲んで再び寝た。
目覚めたのは8時43分。9時22分の電車に乗らなければ飛行機に乗り遅れる。葬儀にも間に合わなくなる。二日酔いではない。まだ酒が残っている。
どんだけ飲んだんだ?
LINEを見ると、目が死んでいる私の画像がグループに上げられていた。そうだ、三軒目でボカロを歌った記憶がある。脳漿炸裂ガールを歌って、二息歩行を歌ったら、千本桜を歌えと言われて…あとは記憶がない。まだ、まだ何か歌った記憶がある。
カラオケはどうでもいい。
とにかく七分で支度を済ませて、朝食コーナーで水を飲み、タクシーで駅に行く。予定通りにスケジュールをこなし、名鉄岐阜から特急電車に乗った私はすぐに意識を失った。気がつけば名古屋。隣の席に人が座った。再び気が遠くなる。目が覚めればセントレア。
うー、まだ酔っている。土産を買う気力もない。保安検査場を通り、ラウンジで再び水を飲むとゲートに向かった。機内で着席して、ようやく一段落だ。再び意識を失った。
50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)