五歳の女の子が両親に虐待されて殺された。子供を殺した父親が逮捕されてから、連日のように、女の子の最後の数日の様子や言葉、ノートに書かれたメモなどが報道されている。五歳にして、あまりの健気な女の子。なくなる数日前には「もうご飯が食べられない。」と悲しんでいたと言う。
胸が痛い。泣きそうになる。
親ならば誰でも「自分の子どもは、かくあるべき。」というイメージを持っていると思う。それと現実がかけ離れていると、イラついて子供に冷たく当たったり、しつけと称して体罰や虐待を行ったりするのだろうか。子どもが自分の思い通りにならないと、暴力は重なり、エスカレートしていく。最初はちょっとした罰が、いつのまにか生死に関わるような罰へと激化してしまう。しまいには、どうしたらいいのかわからなくなり、周囲にバレないことだけを考える。先のことは思考停止。
取り返しつがつかなくなる前に病院に行けば助かったものを、虐待の発覚を恐れ、目先の自分の保身だけを考えて、女児を放置し、苦しめ、命を奪った。恐怖に支配されて、黙ってみてるしかなかった母親も地獄を見ただろう。子供に罪はない。幼くして苦しみ、理不尽な環境で亡くなった女児のことを考えると、胸が締め付けられるようだ。
彼女の冥福を祈るとともに、子どもの命を奪った大人に対して怒りがこみ上げてくるのだ。こんなヤツを死刑にしてはならない。おそらく服役後に社会的に強烈な制裁を受けるだろう。今の世の中、ネットを最大限に活用した集団リンチに酔いしれてる人も少なくない。
虐待を受けている子供を見つけ出して迅速に保護し、虐待から救い出せないだろうか。子供たちが安心して暮らせる世の中にできないものだろうか。子供は国の宝だ。大事にしなければならない。なくなった命は取り戻せない。自分の子供たちは思いっきり愛したい。顔見知りの子供だって、それとなく気遣ってあげたい。それなのに、今の世の中では、地域でこどもを見守ることすら難しい。
なぜだろう。
人権、人権と叫ぶ人たちが、この国を壊しているように感じてならない。
50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)