佐賀と明治維新と帝国主義

投稿者: | 7月 11, 2020

佐賀県と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。佐賀牛、伊万里焼、唐津焼、呼子のイカ。最近ならハナワ兄弟だろう。昨晩、兄の方のショーを見た。個人的には思いつくことが色々あるが、いい思い出もない。この地は私にとって鬼門だ。

だが、今回は仕事ではなく、経済活動の一環で訪れた。 視察のようなものだ。佐賀県庁近くでは佐賀維新博が開催されている。知事が是非とも見学してほしいと挨拶で話していたが、たいていはこの手のイベントは地元の業者が企画した、つまらなくてショボいのが定番だ。

なので期待せずに見たのだが、すごかった。360度シアターや迫力のある映像も素晴らしいが、その中身が衝撃的だった。

幕末、日本が欧米列強に植民地化されなかったのは、佐賀藩の科学力と軍事力によるものだったという内容だ。

佐賀藩が?

江戸時代、幕府は鎖国政策を敷いた。外国との窓口は四箇所のみ。有名なのは長崎の出島だが、その他に朝鮮との窓口である対馬、アイヌとの窓口である松前(北海道)、清との窓口である薩摩と琉球である。長崎はオランダとの窓口、唯一の西洋との接点であった。佐賀藩は福岡藩とともに出島の警護を任された。つまり、西洋文化との接点に関わっていたのだ。

江戸末期、欧米列強はアジアの植民地政策を進めた。ヨーロッパではフランス革命戦争においてナポレオンが勝利し、フランス革命政府が膨大な植民地を受け継いだ。オランダもフランスの占領下に置かれた。しかし、イギリスに亡命したオランダ国王は、旧植民地の接収をイギリスに依頼した。

そんな中、イギリス海軍の軍艦がオランダの旗を掲げて長崎に入港後、オランダ領事を乗せると、旗をイギリス旗に切り替え、領事を人質に取ったまま、長崎港内のオランダ船を捜索した。ところが佐賀藩は経費削減から無断で警備を減らしており、本来は千人程度の警備がいるはずなのに実際には百人しかおらず、大問題となった。数日後にイギリス軍艦は長崎から出て行ったが、以降、イギリス船が長崎に出没するようになった。

鍋島公書簡
鍋島直正公の直筆の手紙

その後、アヘン戦争が起きた。大国、清が近代的なイギリス軍の前に一方的に負けた戦いだった。危機感を抱いた佐賀藩主、鍋島直正は人材を集め、反射炉とアームストロング砲の開発を命じた。 ときはペリー来航の三年前。資料は一冊のオランダ書籍のみ。

二年もの月日をかけ、ようやく日本初の反射炉を建設。鉄鋼の生産に成功し、さらにアームストロング砲の製造にも成功し、出島の警護に百門を設置した。蒸気機関も完成させて、初の国産蒸気船である凌風丸を建造した。この強力な軍事力が明治維新による内戦を速やかに終息させただけでなく、明治政府が独自の戦力を有し、欧米列強に対抗できる原動力になった。

佐賀維新博ではここまでが素晴らしい展示で説明されている。

佐賀幕末維新博

明治時代、アジアでは日本とタイ以外はすべて欧米、言い換えると白人国家の植民地となっていた。その手からアジアを解放しようとすべく、日本は大東亜共栄圏を構想した。有色人種の手によってこれが実現すると、世界中の植民地や、半植民地化した中国での権益が消失してしまうと考えた欧米列強は、日本を締め上げて開戦へと追い込んだ。

大戦末期に、東洋のものは東洋に返すと、硫黄島で玉砕した市丸利之助海軍少将がルーズベルト大統領に宛てた手紙は、まさに戦後の世界観を語っており、全米の新聞に掲載された。その後、世界中の植民地はことごとく欧米列強の支配から独立を果たした。

ここに帝国主義が終焉を迎えたのである。