1996年、李登輝によって民主化を果たした台湾では、初の大統領選挙が行われることになった。台湾民主化に反発した江沢民の中国政府は、台湾海峡に演習と称してミサイルをぶち込んだ。台湾の富裕層は「中国と台湾は仲が悪いが、それでも同じ民族にミサイルを撃ち込むようなことはなかった。今回は戦争になる。」といって、オーストラリアやニュージーランド、カナダやアメリカに家族を移住させた。
台湾人は移民をまったく厭わない。口蹄疫で日本が台湾からの豚肉輸入を全面禁止したとき、台湾の養豚業者はカナダに移住して、広大な土地を手に入れ、元より何倍も大きな養豚場で育てた豚を輸出して、さらに儲けたくらいである。私の知人も家族をメルボルンに移住させていた。彼の家族が夏休みで台北に戻って来たとき、娘さんが公文式のドリルで勉強していたことがとても印象的だった。私も子供の頃に習っていたからだ。
この頃、台湾では年に数回は鄧小平が死んでいた。実際に死んだわけではない。そういう情報が流れて新聞やニュースで報道されるのだ。大概はガセだったが、鄧小平の死が報道されるたびに、株価が影響を受けていた。投機筋が情報を流しているという話も台北で聞いた。翌年、実際に鄧小平が亡くなったとき、私は北京にいた。鄧小平がどれほど人民に愛されていたのかを、身をもって知ることとなった。
50年ほど生きていれば、いろんな経験をするものだ。さほど破天荒な生き様だとは思わないのだが、あまり他人が知らないことを見知ってきたらしい。そんな私の人生の切れ端でも誰かの役に立つかもしれないなら、記録として残す価値はあるかもしれないなどと考えながらブログを更新している。(詳しく読む…)